2018年10月スタートの趣味どき水曜放送シリーズは「おとなの歩き旅 秋」と題して、この秋訪ねてみたい山城、低山、朝市・陶器市の町、古街道の歩き方を紹介するシリーズ全9回です。11月14日放送の7回目は、古街道密集地帯 東京・多摩~町田を歩きます。
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趣味どき おとなの歩き旅 秋 第7回 ニッポンの古街道密集地帯 東京・多摩~町田の基本情報
放送日:2018年11月14日(水)
放送時間:夜9:30~9:55 NHKEテレ
再放送:2018年11月15日(木) 午前10:15~10:40 NHK総合
再放送:2018年11月21日(水) 午前11:30~11:55 NHKEテレ
出演者
旅人 とよた真帆
歩き旅大好き。
羽場裕一
土地の歴史を感じたい。
古街道研究家 宮田太郎
年間150回以上古街道を歩く達人。
行政や大学関係者と協力して各地の古街道を調査研究して、その魅力を広く伝えています。
語り 龍田直樹
番組内容
「古街道」とは、主に古代から戦国時代につくられた、各地の拠点を結ぶ古い街道のこと。東京の多摩丘陵には、鎌倉時代、国府や幕府のあった鎌倉へと続く道が築かれ、往時の人々が通った道が密集しているという。古街道研究家の宮田太郎さんの案内で、源頼朝から、幕末の新選組の面々まで、歴史を彩った人物たちに思いを馳(は)せながら多摩丘陵を歩き、古街道の魅力を探る。
引用元:tv.yahoo.co.jp
【今夜9:30 おとなの歩き旅・秋】
今回は古街道密集地帯 東京・多摩~町田。
源頼朝ゆかりの「鎌倉古道」をはじめ、
武士たちが駆け抜けたであろう道を歩きます。「#趣味どきっ !」 #Eテレ
11月14日(水)午後9:30https://t.co/HAfdl8EcZU— NHK Eテレ編集部 (@nhk_Etele) 2018年11月14日
今日の歩き旅は鎌倉時代の古街道を探訪します。
古街道とは古代から戦国時代につくられた昔の街道のことです。
今回は東京の多摩丘陵を通り、鎌倉に続く鎌倉古道が舞台。
かつて武士たちが駆け抜けた名残をたどっていきます。
さあ、歴史への旅の始まりです!
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古街道密集地帯 東京・多摩~町田
今回の歩き旅は、歩き旅シリーズおなじみのとよた真帆さんと羽場裕一さん。
更に古街道の専門家の宮田太郎さん。
古街道歩きを楽しむポイント①現代の地図から古街道を探そう
現在3人が待ち合わせて立っているのが、東京多摩市の聖蹟桜ケ丘駅前です。
宮田さんによると街角に設置された施設案内図の地図を見ると、ひと目で分かる違いが古街道と現代の道にあるそうです。
古街道は少し蛇行した細い道で、現代の道は真っ直ぐ太く作られているそうです。
以下の画像の黄色の道が古街道だろうとのことでした。
横に走っているのが現代の川崎街道で、画像右の方で縦に交わっている太い道路が鎌倉街道です。鎌倉街道の横を蛇行して続く細い道が古街道だそうです。
こうした道を地図上で見つけることが古街道探しの第一歩なのです。
鎌倉街道とは、源頼朝が開いた鎌倉幕府と各地を結んだ道路網の総称です。そのため、鎌倉街道と名のつく道は無数にあります。鎌倉街道が結ぶ代表的な場所は、常陸国府(茨城県)、下野国府(栃木県)、上野国府(群馬県)、武蔵国府(東京都)、下総国府(千葉県)などです。
中でも代表的な道は、群馬県の上野国(こうずけのくに)府から武蔵野国府を通って鎌倉を結ぶ上道(かみのみち)、栃木県の下野国(しもつけのくに)符からの中道(なかのみち)、茨城県の常陸国(ひたちのくに)符から下総国府を通る下道(しものみち)の3つで、有事の際に各地から鎌倉に援軍が駆けつけられるよう整備されていました。
従って、本当の頼朝が作ったかもしれない鎌倉街道はさきほどの地図上の黄色い古街道のほうだったかもしれません。
その道を歩いてみましょう。
3人は川崎街道からこの古街道に入る道の入口にいます。
この道はおそらく旧鎌倉街道の上道で、かつての武蔵国府のすぐ近くです。
ここから鎌倉方面に10kmほど歩いてみましょう。
頼朝の時代に作られたという鎌倉古道。
古の香りを実感できるのでしょうか。
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古街道歩きを楽しむポイント②古道の痕跡に目を向けよう
歩き始めてすぐにとよたさんが何かを見つけました。
画像中央にあるお墓のような石は、観世音菩薩と表面に刻まれています。
200年ほど前の天明3年に建立された観音多号塔で、鎌倉へと続く道に建てられた石碑です。
道標にもなっていて、石碑の両側面にはそれぞれ「右ふちゅう」「左八おうじ」と刻まれていました。
こうした石仏や石碑などは古い街道を見つけるうえで大切です。
この石碑の近くにある川は大栗川といって、鎌倉幕府は最前線基地としていたようです。
つまり、鎌倉まで大きな川がないので、天然のお堀の役割を担っていた川で、北の最前線なのです。
江戸時代後期に書かれた「調布多摩川惣画図」を見ると、この辺りはかつて鎌倉幕府の需要な砦を構えた場所で、関所や天守台のあった関戸城の全景を窺い知ることができます。
手前にある大きな多摩川から、画像の中央から少し左にある道を上るともう一つの川である大栗川にぶつかりますが、今丁度その辺りの橋の前にいることになります。
道はその先の関戸村までまっすぐ伸びています。
まさしくこれが江戸時代の道の姿です。
この橋から鎌倉まではおよそ40km。
馬で駆ければ1,2時間で移動可能。
そのためこの一帯は防衛上の要所だったのです。
一行は関戸城天守台跡をあとにして、鎌倉側に進みます。
関戸は、戸は集落をあらわしているので、関所がある集落という意味の名前の街です。
この辺りの関所は南木戸柵で、熊野神社の辺りのことだったようです。
入り口に南木戸柵跡の案内があります。
熊野神社は関戸城の南側で、鎌倉幕府の関所があった場所です。
関所には45cmの間隔で木戸柵がありました。
この柵後はそのものではなく復元されたものです。
鎌倉時代には、この付近の2箇所に関所を設けて道の往来を遮っていたと言われています。
こうした史跡に触れることで、ここに中世の道があったことが確かなものとなりました。
そんな古の道の中でも、昔の面影が残っている場所があるそうです。
次はその貴重な場所を紹介します。
多摩市にある妙櫻寺の脇の駐車場を抜けて、町田市に入りました。
駐車場の脇の森の中に入る道があり、そこを進んでいきます。
知らなければ見逃してしまうほどの細い道です。
街道と言われたら、昔の人の気持ちになってくるような景観です。
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古街道歩きを楽しむポイント③道の形に注目しよう
道の両端がまるで壁のように高くなっています。
実はこれが鎌倉時代につくられた道の特徴なのです。
律令時代、中央政府によって主に奈良京都につくられた道は、端に側溝が設けられ、道幅は12mと6mの2つの規格がありました。
それに対して、鎌倉時代の道は両側に高さ2mの土塁が設けられ、道幅は6mでした。
上の画像、右は天然の土手ですが、左は人為的に土を盛って高くしたように見えます。
鎌倉への道はなぜこのような作りをしていたのでしょうか。
この道から外を眺めると木の間から見えますが、周りからはこちらがあまり見えません。
これで、兵力や武装などを隠しながら移動していく道だということが考えられます。
日本初の武家政権だった鎌倉幕府。
その次代につくられた古道だけに、何か軍事的な理由があったのではないでしょうか。
「いざ、鎌倉」
そのときには何万人もの兵士たちがこの道を通っていったのでしょう。
鎌倉古道は途中で私有地になり、行き止まりになってしまいます。
古道歩きは、途中で行き止まりになったり歩行禁止の場所もあるので注意してください。
古い道の周辺で、別の道が交差するのもよくあること。
一行は鎌倉古道からそれて別の道へ。
次は布田道。
町田から調布方面へと進む道です。
江戸時代にはすでに使われていたという記録が残ります。
この布田道には「関屋の切り通し」という絶景ポイントがあります。
鎌倉時代よりはずっと後に作られた道です。
かつて鎌倉古道が通ったのは、この布田道の上らしいのです。
切り通した道を埋めた上が鎌倉古道だったようです。
歳月とともに道が失われても、別の道として生まれ変わることもあるのですね。
こうしたことを知るのも、古街道歩きの楽しみです。
丘陵地帯を抜け、谷あいへと降りてきた一行。
次の舞台はかつて宿場町として栄えた町田市小野路(おのじ)です。
平安時代から宿場ができ始めて、旅籠もあったようです。
小島資料館の板塀沿いを歩く一行、宿場町の雰囲気が伝わります。
この宿場町は、江戸時代には大山参りで賑わい、6軒もの旅籠が並んでいたようです。
現在も時代を感じさせる建物が残っています。
古街道歩きを楽しむポイント④歴史上の人物に思いを馳せる
この地域の名主の子孫である小島政孝さんにお話を伺いました。
小島さんは、小島家第24代で小島資料館館長です。
小島資料館には幕末の史料がたくさんあります。
小野路は5箇所から道が来ています。
この周辺は現在も古街道の面影が残る多摩丘陵でも貴重な場所。
埋葬された徳川家康の遺骸を日光東照宮に運んだ道である御尊柩御成道(ごそんしつおなりみち)もすぐ近くを通ります。
そもそも多摩丘陵には古代より武蔵国府がおかれたことから、時代ごとに各地の拠点を結ぶ道が設けられ、やがて古街道密集地帯となりました。
先ほどの布田道は、多摩地区出身の新選組近藤勇や沖田総司らも、この宿場に通うため利用したようです。
小島さんの先祖である小島家20代小島鹿之助は新選組副長の土方歳三の遠縁にあたり、近藤勇とは義兄弟の盃を交わした仲でした。
そんな関係もあって、小島家には新選組の面々が出稽古に通ってきたそうです。
後の新選組の中核メンバーたちが出稽古でこの地に来ていたと言います。
資料館には、土方歳三の書簡もあり、そこには「婦人が慕ってくること、筆舌に尽くしがたい」とモテ自慢をする内容で、鬼の副長の異名をとる土方の意外な一面です。
古街道歩きを楽しむポイント⑤古老の話をじっくり聞いてみる
次に紹介されたのは、いまからおよそ30年前。
歴史を変える大発見に立ち会った場所です。
現場は野津田公園の片隅です。
ここは日本で最大級の道の跡が発掘されたそうです。
野津田公園を横切るようにして鎌倉古道が通っていたのではないかと考えられていました。
今3人が立っているのは、画像の右端にある球場の左脇の森の中です。
宮田さんは、土地の古老に話を聞いているうちに、
「そう言えば鎌倉街道っていうのを昔から聞いたことがある。ただ、子供の頃に藪の中に入ったけど壁があって、そこから10mくらい草の中を移動したらまた壁があった。それが伝説の鎌倉街道だ。」
という話を聞いたそうです。
それで行ってみたら、篠竹のすごい林だったそうです。
その後も各所に粘り強く働きかけて、1991年に発掘調査を開始しました。
翌年、なんと巨大な古街道の跡が地面の下から姿を表したのです。
道は3段構えになっていて、もっとも下の階層には穴が無数に開いていました。
おそらく、一番上の段は人が通る道。一番下は荷車の道で、無数の穴は足をかけて踏ん張りやすくする穴だったのではとのことです。2段目は荷車をサポートする人の道ではないかと宮田さんは考えています。
荷車で坂道を上る特殊な構造だったからこそ、スケールも巨大だったのかもしれません。
この公園の南側でもかつての鎌倉古道の痕跡を見ることができました。
森の中のけもの道を指す看板。
地元の方はこれが伝説の鎌倉街道だと伝えられてきたそうです。
2009年の調査で、間違いないだろうということになって、立て札を建てたそうです。
まとめ
多摩から町田。
およそ10kmを歩いた旅でした。
かつてここから一本の道で鎌倉とつながっていたのです。
重要な道や有名な道は未来永劫変わらなく発展するのではないかと錯覚している。ところが、大昔の道がどんどんなくなって、街が変わってきているのを見て、いろいろ考えさせられました。残っていないというのもロマンであり、これからだんだん分かってくるかもしれない。奥が深いですね。ととよた真帆さん。
古街道の歩き旅、これから流行るかもしれませんね。
この週末、近くの古い道をちょっと歩いてみませんか?
趣味どき おとなの歩き旅 秋のテキスト
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